February 22, 2006

from the fire to the wire (2)

 「後日」といっておきながら,忘れてました・・。
 先週書いた「Through the fire」の「the fire」の意味ですが,答えは「攻撃・射撃」。より正確には「(対空もしくは空中戦での)砲火・銃撃」ということになります。理由は,「fire」にある定冠詞「the」です。
 「TOP GUN」のストーリーから,この歌で言及されている内容もまた,軍用パイロット(特に航空母艦艦載機のそれ)についてであると見ていいでしょう。決して「飛躍」をはいえないでしょうし,実際この歌詞だけでもその点は推測できます。とすると,前回掲げた文章や,この歌の冒頭部分にある「I will take it to the wire now / Until every race is run / I'll go straight into the fire now / Until every day is done」などから,「fire」と「wire」が単に音韻の面だけでなく,意味的にも対置関係にあることが分かります。
 軍用パイロット(あるいは軍人)にとって「the」,つまり共通認識にある「fire」とは何でしょ?。
 ・・「撃て!(Fire!)」は容易に思いつきます。よって,ここでの「the fire」(名詞)は「撃つこと」→「攻撃」。「through」とあるから,単に「自分が撃つこと」だけでなく「撃つ」「撃たれる」双方の状態,つまりは「砲火」とか「攻撃」という状態と解釈できます。
 なお「the fire」の対にある「the wire」。これは厳密には,航空母艦の甲板上に張られている着艦用のワイヤー,「アレスティング・ワイヤー(Arresting Wires)」のことです。なぜかというと,これもまた歌詞の内容,および「the fire」が分かった段階で,想像できるものだからです。
 艦載機は着艦する際,速度と高度を調節しながら,機体後部下面にある引っ掛け棒,「アレスティング・フック(Arresting Hook)」をこのワイヤーに引っ掛けて停止します。時速250kmほどで降下してくる数十トンの機体を,直径数センチのワイヤに引っ掛けること自体「離れ業」としかいいようがありませんが,ダメなら直ちに機体と速度を上げ,再度離艦しなければなりません。その判断は瞬時です。このテクニックだけは人間の感覚に頼らないとダメなようで,艦載機のパイロットはひたすらこれの訓練に時間を費やします。
 ワイヤーを掴むことで無事帰還することができる,つまりはこのワイヤー自体,生還する帰着点そのものといえるでしょう。そう考えると,歌にある「the wire」は「物理的な何かのワイヤー」というより,「生きて帰る場所」とでも解釈した方がいいような気がします。
 語の奥に潜んだ意味を解するのは,ホントに難しいものです。

図・英語だけど分かりやすい(ココ

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February 13, 2006

from the fire to the wire

また私の好きな歌から。歌詞は全て良いのですが,長くなるので2番のみとします。

There's a feeling that I can't ignore / like a stranger at my door
So revealing that I cannot hide / when you settle up the score
Voices say -- night and day / live your life as if each second / was the final one

Through the fire /to the wire
When the night out of control / is breaking your heart
Through the fire / to the wire
When the flames are burning hot / they take you higher

 「TOP GUN」のOST,8曲目の「Through the fire」という曲です。ジャケットに記されている邦題(と対訳の歌詞カード)は,どういう訳か「炎をぬけて」・・。多分「fire」をそのまま「火・炎」と思ったのでしょうか。完全に間違いという訳ではありませんが,しかしこの文脈では「×」と言わざるをえません・・。
 ナゼか?ヒマな方,考えてみて下さい。「正解」は,後日また書きます。言えることは,ただ単語を置き換えただけでは翻訳・通訳はできない,ということです。

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September 20, 2005

「bilingual」と「trilingual」

 こういう言い方をすると,見方によっては単なる「嫌味」「自慢」に受け取られかねないのですが,全くそんなつもりはありません。その点をご了解を。
 ある意味「偶然」から,韓国語に携わるようになりました。英語学習への関心と努力は以前から払いつつ,決してそれには不相応と言わざるを得ない現状(レベル)に置かれている中で,韓国語はそれなりだと思います。「読書聴話」は,まず問題ないでしょう(もっとも外国語は母語ではない訳ですから,「100%」はもとよりありえませんし,そのため辞書は常に使っていることになります)。
 今となっては若干後悔はしていますが,実は当初は韓国語(言語の方)に全く関心はありませんでした。当初のような,「興味ない言語を強制的に学習させられる(=習得しないと生活できない)」という環境に置かれることは,もちろん苦痛以外の何ものでもありません。しかし本人のモティベーションが極めて低いにも関わらず,そうした環境にあると,自然と習得するようになるものです。今でも半ば冗談で「別にしたくて覚えたわけじゃない」と知人などには話しています。しかし面白いもので,他の言語にも共通するでしょう,ある程度のレベルを超えると「駆使できることの喜び」を感じて,さらなる向上のための関心や努力をするようになるものです。
 さて,結果的に「trilingual」なるものになってしまいました。ま,「bilingual」でもいいのですが,周りの知人・身内から「bi/trilingualになるとどうなる?」とか,分かるような分からんような質問をよく受けます。
 答え。何も変わりません。変わったといえば,「その言語が(自らが納得できる範囲内で)理解できるようになり,使うことができるようになった」ということだけです(当然か)。
 時々「外国語ができる」=「全て分かる」と誤解されている方がいますが,そんなことはまずあり得ません。日本語でさえ知らない単語・漢字があり,「国語辞典」を使うということを想像してみて下さい。ましてやある程度の年齢に至ってから学び始めた「外国語」,日本語以上に知らない単語があって当然でしょう。重要なのは,知らない単語・表現に遭遇した時に,その内容についての言い回しができるかどうか,というのが「外国語ができる/できない」の重要な基準です(ついでにいうと,その言語を使用している時の「自信・安心感がどの程度備わっているか」も)。
 たまに「trilingual」ということで,外国語同士(英 ⇔ 韓)の通訳・翻訳を依頼してくる場合があります。機械ではないんだから,ちょっとはこっちのことも考えろよ・・。想像つくでしょうが,これは正直シンドいっす。

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September 10, 2005

翻訳・通訳のテクニック

 日ごろ外国語に接していると,つくづくいろいろなことを考えさせられます。ことばは「言葉は生きている」のはもちろん,その背後にはその言語を使う人たちの文化規範・価値が根ざしているということも,否応なしに突きつけられてくることも,その一つです。
 確かに外国語を「上手く」操るためには,高度な語彙力が求められてきます。単語と同時に熟語・慣用表現をどれだけ知っているかということは,「読書聴話」いずれにおいてもその可能性を拡大していきますし,それによってそこで扱われる「話題」や「表現」なども自ずとより豊富なってきます。したがって「どれだけ単語を知っているか」が,外国語の得手不得手を量る主要な基準となるのは確かです。
 しかし同時に,外国語はあくまで「言語」であってパズルではありません。対応する語彙を入れ替えていればよい,というものでもないのです。もちろんそれでもある程度は通用・対応できますが,「日本語っぽい」(日→外)あるいは「不自然な日本語」(外→日)という限界は拭いきれないのです。
 一つ例を挙げましょう。 日本語初級レベルの韓国人が日本語の勉強をしていました。ちょうど「受け身」の部分で,以下のような例文について若干理解ができず,本人は困っていたようです。

 「試験の時に隣の子に回答を見られて,イヤだった」

 なぜ困っていたのか。やや乱暴な言い方ですが,韓国語は受身表現がほとんどありません。用いられる場合でも,単語や表現がかなり限定されており,少なくとも日本語ほど乱用されることはないのです。少なくとも上記例文のような状況では,受身形が用いられることはありません。通常はこのような言い方になります。

 「시험 때 옆자리 애가 내 답장을 들여다와서..」
 (試験の時に隣の子が私の答を除き見て・・」

 つまり,主語が入れ替わる(文章構造が変わる)のです。同じように「叩かれる」「ぶつけられる」「変えられる」なども「叩く」「ぶつかる」「変わる」などに言い換えなければなりません(「変えられる」なんてムリ・・(笑))。もし前出のような,「単語の入れ替え」だけで外国語ができると思っていたなら,このような「入れ替え」にはまず対応不可能でしょう。仮にできたとしても,それは「不自然な外国語/日本語」のままで終わらざるを得ません。
 翻訳や通訳においては,このような「入れ替え」の技術がつとに要求されてきます。特に外国語→日本語では,その外国語だけでなく日本語についても,高度な表現や語彙が不可欠とならざるを得ません。外国語の語彙力を挙げることはもちろん重要ですが,同時に日本語の能力も上げておかないと,人前で「恥」をさらすこととなるのです(通訳は「同時」だから恐ろしい・・)。

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September 04, 2005

「危険な単語」

 外国語を勉強していると,よくお世話になるのが「辞書」です。分野・目的に応じてその用途も様々ですが,語学の場合だと「知らない単語に出くわした時」が最も多い使用頻度でしょう。
 通常,「知らない単語」に遭遇すると,意味が分からなくて気になって仕方がないので,「辞書」でその意味を調べます。大抵は,当該単語に対応する「日本語の意味」の部分を眺めて,オシマイ。うん。それで「理解」できれば,いいんすよ。問題ナシ。
 ところが,です。こういう,ある意味単純な作業をかなりの長期間に渡って続けていくと,ある不思議なことに気づきます。
 ・・「同じ単語を何度も調べている!?」
 私って,記憶力悪いんでしょうか??かつて調べたはず,意味も確認したはず,んで(少なくともその時は)納得したハズ。でも「忘れてる・・??」。
 私は通常,紙媒体の辞書(つまり「電子辞書」でないフツーの辞書)を調べた時には,必ず印を付けるようにしています。とりたてて基準などないんですが,気分次第で「赤ボールペン」だったり,「蛍光黄」「蛍光赤」「赤鉛筆」「青ボールペン」「金色ボールペン」云々・・。
 んである時,試しに,調べた順番で色を変えてみました(初めての時は「赤ボールペン」,2番目は「蛍光黄色」とかいう感じで)。とにかくその見出し語を過去に調べたかどうか,記憶に残っているかどうかは無視して,「分からん」と思った時点で即辞書→確認した時点で色塗り。
 ・・をやっていくと,ある単語は真っ白(印ナシ=調べてない),いくつかの単語は色一つ。で,ごく一部の単語は見事にフルカラー。つまり,辞書の大半の言語はチェックせず(それでも時を経て減少して行くのは確か),一部は一回確認,一部は何度も繰り返し調べている,ということです。
 もちろん読んでいる文章の分野によって語彙も限定されてくるので,その影響があることはいうまでもありません。ですが,とにかく調べた時には「分かったと思いこんでいる,実は分かっていない」という「ヌシ」が辞書の中に潜んでいるんですよ。こヤツのせいで時間と労力(あと集中力も)をかなり消費させられていることは確かでしょう。ということは,この「ヌシ」を何とかすれば,何か「改善」へと至ることは間違いないはずです。
 この「ヌシ」,どうやら足を引っ張っているようなので,ある日私は回避すべき(残しておくとトンでもない)という意味を込めて,「危険な単語」と名づけました。逆手にとってこれを重点的に攻めていけば,語彙力増加(というよりも単なるコスト削減か?)になるのは確かでしょう。ただしこれ,例えば「似通っている複数の候補がある」とか,「語そのものが複雑」とは限りません。一見単純なモノでも,「危険度」を潜めているのもいます・・。
 「abandan」(他:諦める,捨てる)と「abundant」(形:豊富な,豊かな),韓国語だと「바꾸다」(換える・変える)と「바뀌다」(換わる・変わる),これ,未だに覚えられないんだよな・・。

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July 09, 2005

外国語

 声を失って早一週間。ようやく会話らしきことはできるようになっても、声色は異常なまま。未だに回復の兆しがありません。これからどーなるんでしょ。ま、不要な発話が減ったので人間関係にも若干軋みが生じつつありますけど、これはこれで静かで楽です。
 さて、一つの言語をマスターすること、大変なコトです。そんな簡単にはできません。よく英会話がらみで「これさえすればOK!」系のがあるけど、そんなんでできれば誰も苦労しません。実際には苦労を要するものであるから、外国語に秀でた人(通訳など)の存在価値がある訳だし。そもそも言語は一つの世界。「簡単にマスター」できることは、それだけ「その言語は単純」と冒涜してるようなものです。その点、気をつけましょう。
 もちろん世の中の言語は千差万別、それぞれ文法と語彙に特徴を持っているでしょうから、自らの母語との近似性如何によって習得時の難易度に違いはあるかもしれません。また人によっては、異様に習得が早い場合がある(これを「センス」と名づけた)ので、一概に「全てが大変」とも言い切れない気もします。ちなみに後者、「もともとその人が外国語全般に秀でている」のか、それとも「ある特定の言語に適している」のか、いずれかなのかは非常に興味深いところです(こういうところから「外国語学習法」のコツを知ることができる)。
 よく、「言語はトゥール(tool)、コミュニケーションの手段だから、手段が目的となっちゃダメだ」という人がいます。ま、確かにそうですね。人間が言語を創り出したのであって、言葉が人間を創ったのではありません。要は通じればいい、発音もそう。そればっかりに縛られてたら、いつまでも進展しない。御意。確かに。
 が、しかし。言語は「方法」「手段」であっても、他の一般の「道具」の類とは全く違います。独自の価値観と世界を持ってるんですよ。英語になぜ「I was made for you」という表現が存在し得るのか?韓国人が会った冒頭から「밥 먹었어요?」(直訳では「ご飯食べました?」)と尋ねてくるのか? それを理解してなくて言語を単なる機械的に捉えていたなら、つまり母語・外国語を「置き換え」でだけ捉えていたなら、自ずと限界に至らざるを得ません。「一つの世界である」、つまりそこに「神」を宿しているとするのならば、「初めに言葉があった/言葉は神とともにあった/言葉は神であった(In the beginning was the Word/The Word was with God/The Word was God)」とヨハネ伝が述べているのは、実はスゴく奥が深いのでは。
 
 ↓ところで、Bennie K。「ナニを今さら」という方もいるかもしれませんが、2000~2003年の日本の流行モノはつゆ知らずの「浦島太郎」状態。こないだ初めて知って、最近にお気に入り(外国語の上手い♀にスゴく惹かれるタチなので)。最初聞いた時(サビとRapの部分ね)、英語は聞き取れたんですが日本語部分(というか「日本語なのか」)が全く不可。だから日本人だと思わなかった・・。

bennie01

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