August 31, 2006

500系

 JR西日本の500系(「のぞみ」用)が来年,東海道新幹線から撤退するというニュースが発表されました(ココ)。既存の鉄道車両の概念を打ち崩す形で導入された「超特急」も,わずか10年で第一線より退くこととなりました。ただし全面引退ではなく,来年以降は新大阪以西の山陽新幹線で,「ひかりレールスター」に類似する形で「300km新幹線」として活躍する模様です。
 主な理由として挙げられたのが,「居住性」。あの飛行機(旅客機)を思わせる円形の客室は,確かに登場時より居住性に批判的意見も呈されていました。円形であるがゆえに,窓際席部分では壁がせり出すような形となっており,非常に圧迫感を与えます。かつて新大阪から名古屋へ急いでいた時,「次にくる列車なら何でも可」と窓口で購入した切符で乗った列車が「500系」。わずか40分足らずの「旅行」でしたが,件の窓際席で圧迫感を味わったことがあります。
 ですが実際には,先の新聞とは逆に,500系の性能を東海道区間で十分に発揮できなかったという事情の方が,より本質的理由ではないでしょうか。東京~博多を結ぶ新幹線は通常,「東海道・山陽新幹線」と称されています。「東海道」と「山陽」と区分されるのはその管轄がJR東海・JR西日本に分かれているからでもなく,ましてや開業時期の違いによるものでもありません。両者の違いは,本線(営業線)の「半径」の差にあります。東海道区間が最小半径500m(山陽が確か2000m)で建設されていることから,運行列車の最高速度は振り子式を導入しない限り,300kmとなることは不可能でしょう。500系があくまで山陽区間を基に開発されたために,この点が「アキレス腱」となったしまったのでしょう。
 東海道新幹線はJR東海,のみならず全JR路線=日本のあらゆる鉄道路線において,最も収益を上げている路線です。JR東海は現在,収益維持・拡大のため「東京~大阪間300km実現」を目指しています。そのためにダイヤ編成の上で「足かせ」となる500系は,もはや「用はない」でしょう。そもそも,JR西日本の手によるものですし。 0系と100系は既に東海道では見られません。しかし500系がこれほど早く同じようになるとは,いささか予想外でした。

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July 28, 2006

週末

明日までに仕上げなければならない原稿があるのに,ようやく半分。久々にピンチ。
って,こんなこと書いているうちにも進めればいいのに。

ということで,よく分からんまま,金剛山電気鉄道の時刻表(謎)。
↓1932年7月現在
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June 04, 2006

経営統合

 本日の新聞の第一面を飾ったのは「阪急・阪神経営統合」。昨年後半に表面化した村上ファンドの阪神経営支配と阪神球団の株式上場化に対し,いわば「対抗策」のような形として突如現れた話だっただけに,当初はその実現可能性に半ば半信半疑でした。しかし昨日あたりから,村上氏のLDに対するインサイダー疑惑が急に現れただけに,単に「経営統合」の時限だけには留まらないようです。
 既にニュースでも言及されているように,今回の阪急・阪神間の「経営統合」は持株会社間の「統合」であり,それぞれの鉄道会社自体が合併する訳ではないので,社名変更などは一切生じません(同一グループになるだけ)。ですので,甲子園行く電車がいきなりマルーン色にされたり,堺筋線(大阪市交)に「ジェットカー」(古い?)が乗込んできたりは,絶対にありません(分かる人には分かる‐笑)。
 ところで問題は,「経営統合」されるため,重複する事業が合理化・整理されるのではないか,という点です。ご存知のように阪急・阪神は梅田~神戸(三宮/元町)間で路線が平行しており,そのため沿線地域でのバス・不動産事業なども「重複」=「ライバル」関係にあるため,その可能性はゼロとは言えません。むしろ逆に,部門によっては当然手が付けられるでしょう。
 ただし一部に見られるような,鉄道部門での「整理」はまずもって,ほとんどありえないでしょう。そもそも路線が阪神間で重複するとはいっても,両者はJRを挟み全く別の地域(「別の世界」といってもいい(笑))を走っています。沿線人口もかなりの規模なので,今更「運転本数の合理化」や「営業規模の縮小・廃止」といったものは,今以上の利用客減を到来こそすれ,JRへの「益」としかならないものです(それくらいのことは経営側は熟知しているでしょう)。既に「スルっとKANSAI」の導入によって相互利用の利便化は図られている訳ですから,今後は重複区間外(例えば京都・大阪・和歌山方面への自社線,もしくはJR西以外の他社線)との利便性向上や,同区間を含めたサービス改善が図られていくことと思います。
 ちなみに,某鉄道評論家が「相互乗り入れ」を提唱していましたが,それってムリ(というか意味ナシ)では?? レール幅は同じ(1435m)でも,線路のつながっているのは神戸高速鉄道の部分だけだし,それぞれ車体寸法が違うような気が・・。

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May 07, 2006

20年

 GWのうち,3日~6日は長野に行ってました(途中倒れて寝込んでいたので,よく分からん連休になりましたが・・)。
 道中,名古屋駅で列車を撮影しました。家に戻り写真を眺めていると,偶然にも昔撮った写真の中に構図の似たものがありました。20年という時間を,ふと感じたひと時です。

↓その1:名古屋駅11番ホーム(06年5月3日)
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↓その2:同所(85年12月22日)
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April 25, 2006

一年

 福知山線の事故から一年が経ちました。その時京都にいた私は,9時半過ぎに「スパモニ」(テレ朝)の渡辺アナの速報でこの事故を知りました。しかしその日終日は研究会で過ごし,夜は知人宅で夜遅くまで談笑に耽っていた(テレビは見ていない)ため,事件の詳細を知ったのは翌日,京大生協の新聞(立ち読み)によってです。
 事故の全貌はほぼ明らかにされてはいるものの,なお(1)制限速度を異常に超過しての運転,(2)事故当日の運転士の状況(およびそれと事故との関係),(3)それまでのJR西の安全対策の状況,(4)いわゆる「日勤教育」と事故との関係,において,未だ不明瞭な部分も残されてたままです。
 あくまで私見ですが,この事故は「運転ミス」という単純な要因で片付けるべきものではありません。結果的に「速度超過をしてまで運転しなければならない」現状をもたらしたのは,「速さ」のための「過密ダイヤ」と,それを現実に可能としていた「労使間の信頼関係欠如」にあるのではないでしょうか。そもそも労使間の相互不信(「憎悪」といってもいいくらい)は,既に国鉄時代から確立していました。民営化されたとはいえ,あくまで「ムダの切り落とし」=「盾突く連中の首切り」=「労組つぶし」が民営化の目的な訳でしたから,今での複数の労組が並立している状況を見れば,相互不信の関係は厳然と残っていると見るべきでしょう。秒単位で設定しつつ,慢性的に遅延する・・・,現状を把握していない,現場に携わる人間の意見が反映されていないからこそ,あのような異常なダイヤが生み出され続けたのでしょう。
 しかしあのような事故は,果たして会社だけに帰結されて「解決」なのでしょうか。
 現在の日本,あまりに「正確さ」を求めすぎてはいませんか?あれだけの大量の人間を一度に移動させる現場において,秒単位で「正確であるべき」を求め,そしてそれが遵守されない場合に「苦情と呈する」のは,実は極めて「異常」なこと(「ないモノねだり」)ではないのでしょうか。世界のどこにおいて,秒単位・数分単位で遅延することを「いいかんげん」「ありえない」とする国があるのでしょうか?多少遅れても構わないではないですか。
 当然,「接続が間に合わない」とする意見が出されるでしょう。ならば一つ遅らして,余裕を持てば済むことです。競争の現場ならまだしも,朝夕の通勤・通学の場において5~10分なんて,トイレに入って缶コーヒーを飲んでいる程度の,小休止の時間でしかありません。それすら余裕が取れない,そんなに焦って日本人,どうするのでしょうか。
 とにかく今の日本,何かに急き立てられているかのように,余裕がありません。一年に際して,感じることです。

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March 17, 2006

「ひかり」と「のぞみ」:その2

 以前,京畿道の富谷にある「鉄道博物館」に展示されている車両について拙文を書いた(ココ)ところ,それに関してご質問を頂きました(vxq12様より)。

>>韓国鉄道博物館に展示されている「テンイネ3形」は「ひかり」の愛称の列車でしょうか?

 「テンイネ3形」は中島廣・山田俊英『韓国鉄道の旅』(JTBキャンブックス,2005年1月)の130~131頁で紹介されています。ここを見ると,「実は「のぞみ号」展望車」という説明が付け加えられています。ここだけでは「テンイネ3形」=「のぞみ」であり,「ひかり」に使用されていたかどうかは分かりません。ただし私としては以下の事情から,「ひかり」にも使用されていたと考えています。

(1)「ひかり」の展望車が「テンイネ3形」と類似
 最大の理由はこれです。基本的に車両の特徴が極めて似ているので,この「ひかり」とある展望車を「テンイネ3形」と見て間違いないでしょう。なお1927年当時,朝鮮には6両の展望車が存在(「テンイネ3形」は1927年製造)しており,名称付き列車の登場(1933年4月の「ひかり」)までは「幹線急行列車に使用」されていました(朝鮮総督府鉄道局『朝鮮の鉄道』1928年)。
(2)「ひかり」「のぞみ」の運転形態
 時期によって「ひかり」と「のぞみ」は運転区間が異なりますが,両列車は全運転期間を通じて昼夜逆となるように設定されていました。車両編成も同一の構成(等級および食堂車・寝台車の有無)となっていたことから,客車が共通運用されていたと見ても飛躍のし過ぎではないと思います。

 ↓は「ひかり」が登場する直前,1932年7月の京釜線の時刻表です。「満州連絡」が昼2本(うち1本は急行)・夜1本設定されていることが分かります。「等級」(「列車番号」欄の下側の漢数字)の箇所では「一等」は特に明記されていませんが,急行(「7番」)に一等展望車が連結されていました。

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February 26, 2006

金剛山電鉄

 昨日の金剛山電鉄,路線図がありました(朝鮮総督府鉄道局『朝鮮旅行案内記』1929)。左下が京畿道で京城方面,中央左寄りの「鉄原郡」から右上方向に伸びる点線(白‐黒)が金剛山電鉄です。右上の海近くに金剛山があります。

↓路線図
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February 25, 2006

時刻表

 昨日は資料収集のため,日帰りで山口まで行ってきました。山口大学の東亜経済研究所に所蔵されている旧植民地関係の資料を閲覧・複写するためです。
 大陸・植民地関係の資料を所蔵する機関はかなり偏っていて,大学の場合は必ずしも規模や知名度とは比例しません。東京大学(全体的に多いけど経済学部が特に)や京都大学(附属図書館のほか人文研など),学習院大学(これは東洋文化研究所に友邦協会のものがある)を除くと,意外にも新制大学成立以前に「高商」(高等商業学校)だった学部を持つ地方国立大学に多く残っています。その中でも滋賀大学経済学部(旧彦根高等商業学校)と山口大学経済学部(旧山口高等商業学校)は特に充実している方です。あくまで「教育機関の蔵書」という点から,治安関係文書・機密文書の類はほとんどありませんが,しかし保存状況がよいので,閲覧もかなり便利です。
  昨日は『朝鮮逓信協会雑誌』(朝鮮総督府逓信局)というのを見ていたのですが,その時に偶然,時刻表を見つけました(「朝鮮逓信」の「逓信(Teishin)」で,隣が「鉄道(Tetsudo)」となっているため)。
 収録されているダイヤは1932年7月現在,もちろん朝鮮総督府鉄道局による編集のものです。優等列車(特急・急行などの特別料金を別途請求するもの)に名称がつく(注:下記参照)以前のものなので,ちょっと物足りなさを感ぜずにはいられませんが,それでも当時の時刻表にはなかなか遭遇できない(『朝鮮総督府統計年報』にも各年ごとの時刻が掲載されていないことはないが,全駅ではないはず)ので,見ていて非常に興味深いです。
 例えば,京城(現在のソウル)~釜山の京釜線はその名の示す通り「京城」が起点かと思っていたら,時刻表では「釜山→京城」が「下り」,「京城」から北に伸びる京義線は「京城→新義州」が「下り」となっています(おそらく「内地」連絡」が起点か)。釜山21時20分発の「1」番列車(列車番号)は,旧満州の安東(新義州の対岸)行,途中京城に翌日8時50分着,15分停車ののち安東着は20時55分(旧満州は日本と1時間時差があったので,現地時間は19時55分),つまり朝鮮半島の南北を23時間半かけて走破していることになります。
 その中に,「金剛山電気鉄道」(私鉄)の時刻があったので,掲載しておきます。この鉄道,京元線(京城~元山)の鉄原から東に分かれ金剛山の麓に至る,当時としては珍しく電化されていた路線です。分断ののち「自然消滅」,現在は廃線跡しか残っていません。路線敷地のほとんどが軍事境界線(統制区域)と重複しているため,容易に近づけないのが現状です。

(注):名称付の列車。不思議と「新幹線がらみ」が多い。
 「ひかり」(釜山~奉天,のち新京),1933年4月~
 「のぞみ」(釜山~奉天,のち新京),1934年11月~
 「あかつき」(釜山~京城),1936年11月~
 「大陸」(釜山~北京),1938年11月~
 「興亜」(釜山~北京),1939年11月~

↓時刻表。100キロほどを4時間とは・・。
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↓統制区域内の廃線跡(旧鉄原駅より約1km北)
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February 20, 2006

岐阜

 岐阜市はもちろん県庁所在地,岐阜県では一応一番大きな街です。しかし基幹産業が繊維・アパレル業。経済構造の変化(特に第三種産業の発展)に上手く対応できず,ただでさえ下降気味の中,「名古屋から電車(JR)で18分」という地理的好条件(?)が禍いして,産業流出に歯止めがかかりません。今や名古屋の衛星都市状態(豊橋・豊田に行くよりも楽)ともいえる状態で,岐阜駅前の中心地付近は正直,寂れていく一方です(余談ですが,「県庁所在地駅の隣駅が他県」というのは,岐阜と滋賀(大津)の2つのみ)。
 そんな岐阜の街中を,路面電車が走っていました。道が狭かったのが決定的な致命傷で,結局は廃止となってしまいましたが,そんな狭い街の中を,大正生まれの超古参(下の写真は1926年製)が最後まで現役で走っていました。それはそれで岐阜の街の,粋な雰囲気でした。

↓「低床」とは無縁・・,乗り降りはちとシンドい(モ510)
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February 10, 2006

橋梁

 韓国・京元線新炭里(現在の終点)の北約3km,京畿道と江原道の境界付近に存在する廃線(橋梁)の跡。
 京元線は元来,ソウル(「京城」)から現在の北朝鮮・元山を結ぶ目的で1911年10月から14年8月にかけて建設された路線です。戦後,南北が分断された後も鉄道は運行されていたものの,50年6月の朝鮮戦争勃発により運転中止,線路も撤去されて現在に至っています。
 国道3号線より東(山の方)へ200mほど入ったところ,田畑の中にこの橋梁は忽然とそびえていました。前後の築堤は撤去され,橋の部分だけがそのまま野ざらしとなっています。この区間の撤去の状況を考えるならば,50年以上この姿をさらし続けていることになるでしょう。
 道路側からひたすらケモノ道らしきところを進み,川(車灘川か?辛うじて水はほとんどなかった)を渡って,裏手(山側)に回った時,思わず息を呑みました。残念ながら写真には鮮明に写っていないのですが,橋桁の横に日本語が書かれていたのです。風雨による塗装の劣化と橋桁の錆によって全てを判読することはできなくとも,「ケタノ高サ・・」はしっかりと読み取れました。
 かつてこの橋を造った者やこの字を書いた者,あるいは単にここ通った人たちは,この橋のその後の劇的な生涯など,予想だにしていなかったことでしょう。
 植民地支配からの解放と分断から既に半世紀以上,もの言わぬ遺構だけが,ただ時を刻み続けます。

↓付近を散策中,後ろの山からずっと兵隊さんが監視してた・・。
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January 10, 2006

隣駅

 北海道の石北線に「遠軽」(えんがる)という駅があります。札幌から約260km,特急では4時間40分ほどかかります。
 この駅,運転列車は全て必ず停車する,れっきとした途中駅なのですが,駅名表示板は写真の通り。まるで「始発駅」のようです。ナゼか?
 答え:「スイッチバック」(要方向転換駅)。
・・だからなのですが,駅そのものが「スイッチバック」なのは,他に一畑電鉄(島根県)の「一畑口」しか思いつきません。
 左方向に伸びていた路線が廃止(89年4月)されたためです。
 
↓気になる「やすくに」は「安国」(紋別郡生田原町)。
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December 23, 2005

社紋

 最近の「マーク」の類は英字の頭文字やマスコット,デフォルメされたデザイン(意味不明なモノが多い)が多用されています。しかし,一昔前の「社紋」(会社の紋章)などをつぶさに観察してみると,図案化された字体(漢字が主流)にはしっかりと意図が込められているなど,かなりの「芸術性」を孕んだものも多く見受けられます。
 下にあるかつての「名古屋鉄道(名鉄)」の社紋もその一つ。中央に「名」を配し(この写真は復元されたものなので,「夕」の部分の縦線が書き忘れられている),その周囲を5つの「工」が取り巻くという形を採っています。もちろんこれは「鉄道の車輪」を表していますが,同時に「工学」(=技術・現場)が「鉄道」(=「名鉄」の「名」)を支えるということも意味しています(かつての鉄道会社の社紋は好んで「工」を用いていた傾向がある)。さらには地域(=周囲,もしたしたら「支える手」も含意?)によって会社(=「名鉄」,中央)が成り立っているという意味も込められているのしょう。
 この名鉄,直接は1935年8月に名岐鉄道(名古屋から西)と愛知電気鉄道(名古屋から東)の合併により発足しました。その際,形式上は前者が引き継いだということとなっています(後者は解散)。実はこの社紋,新生会社の中心たる名岐鉄道(=中央の「名」)と,合併(以前)に消滅しつつも新生会社を作り上げる上で不可欠であった5つの会社,すなわち尾西鉄道・美濃電気鉄道・各務原鉄道(以上,35年以前に名岐鉄道に合併),愛知電気鉄道・西尾鉄道(後者は26年に前者に合併)を意味しているのかもしれません。
 今では水色の「N」(Nagoya)と紺色の「T」(Tetudo)をあわせた「M」(Meitetsu)が「マーク」となっています(名鉄HP)。デザイン的に決して悪いものではありませんが,「一つ一つに歴史が宿っている」と考えると,どうも物足りなさを感じずにはおられません。

↓「社紋」は切符の「影文字」にもなっています。
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October 20, 2005

架線

 スミマセン.何かと多忙で更新が滞っています・・.で,何か一ネタを.

 電車の架線は,直線区間でも「直線」に張りません.必ず交互にズラして,斜めに張っていきます.なので,架線を釣っている架線柱も,「外釣り」と「内釣り」の2種類が存在します.下の写真,手前のモノは「外釣り」(柱側を「内」として)で,その奥が「内釣り」となってるのが分かります.

 ちなみに,この写真の撮影箇所は中原兼遠の屋敷跡で,彼の娘・巴(木曽義仲正室)の生誕地です.

↓架線柱(中央線,木曽福島~原野)
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August 27, 2005

秘蔵品大公開

 以前,切符の収集に没頭したことがありました。最近はあまりそうでもないのですが,それでも今でも,旅先・出先であまり見かけたことのないようなモノや,記念切符の類があると,ついつい手に入れてしまいます。
 コレクターの性,入手後は基本的に「安置」(「お蔵入り」か?)されるのが常です。しかしそれではもったいので,撮影して「写真の部屋」にUPしました。結構珍しいもの,今となっては入手不可なものも,かなりあります(ま,その評価は人それぞれでしょうが,少なくとも見ていて「懐かしい」と思えることは間違いナシ)。ついでに,いっしょになって集めていた「雑貨」のものも公開します。
 ただし幼少の頃,地域的にかなり限定されたものであることは,ご了承のほどを。もっとも,興味ない人が見ても,全く面白くないでしょうが(苦笑)。

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July 18, 2005

セノハチの赤電機

 これが名前の正体、「セノハチの赤電機」。もっとも、厳密には「赤」ではありません(本来赤はAC用、青はDC用という意味アリ)。橙色は一般的に「警告用」「識別用」程度の意味(要するに「通常運用の機種ではない」の意)があるんですが、この機種の場合は広島県の県木「もみじ」に因んでます。
 写真のEF67‐100(101~105がある)は、旧型電機からの改造車・EF59を淘汰したEF61-200(77年にEF60から8両改造)を置換える目的に、91~92年にかけてEF65から改造(3両)されました。EF67は現在、82~86年にEF60から改造された0番台・3両と合わせ、計8両の小世帯となってます。
 セノハチ機の特徴は特異な外見(塗装)です。かつてのEF59(デッキ式)は茶色の本体ながら正面(顔)だけトラジマ模様、で、EF67はこの「赤電機」です。先ほどのEF61-200は「赤」ではなかった(通常の青電機だった)んですが、ただ八本松での「走行開放」(走りながら車両を切り離すという作業で、これまたココでしか見られなかった)のため、「1エンド側」(東京側の意、セノハチだと八本松側)にデッキが設けられました。これがかなり強烈な特徴で、現在のEF67の0番台にも踏襲されてますが、残念ながらEF67‐100にはありません(最初からナシ)。当初両者には運用に区別がありましたが、先ほどの「走行開放」が2002年3月に廃止されてしまったので、現在は区別なく運用されてます。なお100番台は私の留守中に「延命工事」(車体更新工事)がなされたようで、昔に比べツラが少々変わってます。
 ちなみに撮影場所の「上瀬野信号所跡」、八本松(もしくは瀬野)から徒歩で多分1時間。要するに、車じゃないと行けないとこ。暑かった。
(本文中のリンクは、リンク先管理人の承諾を得ていません・・)

↓「セノハチの赤電機」ことEF67-100(103)、上瀬野信号所跡にて.
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July 04, 2005

「のぞみ」と「ひかり」

 現在は東海道・山陽新幹線を走る「のぞみ」と「ひかり」,戦前は朝鮮半島で使われていた名称です。
 1933年4月,釜山~奉天間を結んでいた急行に「ひかり」という名称が付けられ,翌1934年11月に新京へ延長されるとともに,新たに釜山~奉天間の急行には「のぞみ」という名が付けられました。
 時刻・所要時間は時期によって異なりますが,↓にあるのは1936年7月の時刻表です。これを見ると「のぞみ」は朝7時半に釜山を出て,京城を15時半,新義州を23時49分に出て,奉天に翌日朝6時40分に付きます(所要時間23時間10分)。「ひかり」は逆に19時20分に釜山発,京城を翌日早朝3時15分,新義州を11時24分発で,新京に21時に到着(所要時間25時間40分)。ちなみに釜山~新京は1530.4kmあるので,平均速度が約60km/h,当時としては早い方でしょう(当時の時刻表は12時表記なので,午後の分はゴシック体で区別されてる)。
 「のぞみ」は1944年1月に,「ひかり」も植民地支配の崩壊により廃止されますが,40年以上も経て再び肩を並べるようになったのは,何かの偶然なのでしょうか。
※「テンイネ」・・「テン」は「展望車」,「イ」は「1等」(「2等=ロ」,「3等=ハ」),「ネ」は「寝台車(「寝る」)」

↓写真1:展望車「テンイネ3形」(朝鮮総督府鉄道局編『朝鮮旅行案内』1934年)
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↓写真2:「内鮮満主要列車時刻表」(『朝鮮公論』1936年7月号)
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↓写真3:このテンイネ3形,現在一両だけ現存(鉄道博物館にて.せのはっち撮影)
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June 24, 2005

パシナ

 今回はちとマニアックな話です。
 戦前、満鉄(南満州鉄道)に「あじあ号」という列車がありました。1934年11月から43年3月の間、大連~新京間(701.4km)を約8時間半(平均速度82.5km/h!)という、当時としては驚異的な速度で走行していたものです。
↓新京駅にて
mantetusya2
 独特の風体を持つこの機関車、形式称号を「パシナ」(本当は「ナ」は小文字)といいます。
 形式称号というのは、その機種の車体性能や類型を一種記号化して示す「コード」のようなもので、それを見ることで単に種類でなく、外見上の特徴や大まかな性能を知ることができる便利なモノです(調べたわけではありませんが、比較的充実した形式称号を持っているのは日本ぐらいでは)。
 さてこの「パシナ」、「パシ」と「ナ」からできています。後者の「ナ」は「7」の「ナ」で、「「パシ」という種類の7番目」という意味になります。ということで規則上、後者には1~9の数字が一文字(それぞれ「イ」「二」「サ」「シ」「コ」「ロ」「ナ」「ハ」「ク」、濁点は省略)充てられてました。では「パシ」とは何でしょ?
 蒸気機関車は車体中央部分にボイラー(蒸気機関)と火室が横向きに設置されていて、その下に動力を伝える「動輪」と、その前後に車重を分散させたり、曲線でスムーズに走行できるようにするための補助車輪(動輪の前であれば「先輪」、後ろであれば「従輪」という)が取り付けられています。使用目的や車体の大きさに応じて、これらの組み合わせがいくつか存在し、それに応じていろいろなタイプが見受けられます。そのため、各タイプ毎にいろいろな名称・称号が付けられていました(左が前方、●は動輪、○は先輪・従輪)。

  車輪配置        名称         国鉄式
 ○●●●        モーガル        1C
 ○●●●○○     プレーリー       1C2
              (アンチ・パシフィック)
 ○○●●●       テンホイーラー     2C
 ○○●●●○     パシフィック       2C1
 ○○●●●○○    バルティック       2C2
              (ハドソン)
 ●●●●        フォアホイール     D
 ○●●●●       コンソリデーション   1D
 ○●●●●○     ミカド           1D1
 ○●●●●○○    パークシャー      1D2
 ○●●●●●○○  テキサス        1E2
 ○●           シングルドライバー   1A
 ○○●●        アメリカン        2B

 これらのうち、原則として「動輪3つ(Cに該当)」は「動輪の円周が長い=高速運転可」ということで「旅客用」、「動輪4つ(D)以上」はトルク(推進力)が強いということで「貨物用」とされています。動輪が2つ以下のものは入換用のものです。
 旧国鉄では「国鉄式」を基に、アルファベット部分に形番号を組み合わせたシステムを採用してました。「デゴイチ」で有名な「D51」は「ミカド形」(=貨物用)の車輪配置です。これに対し旧外地、満鉄や朝鮮鉄道ではこの「名称」式の方が用いられていました。名称のカタカナ表記から、通常は頭文字部分の二文字を取り、登場した順に上述の数字を著す一文字を付けていく、という方法です。冒頭の「パシナ」は「パシフィック型(2C1)」の「7番目」の型(Cなので旅客用というのが分かる)、また朝鮮鉄道の大型機関車「ミカイ」「パシコ」は、それぞれ「ミカド形(1D1、貨物用)」の「1番目」、「パシフィック形(2C1、旅客用)」の「5番目」ということが分かります。なお「テンホイーラー」は「テホ」、「シングルドライバー」は未確認で、「テキサス」が外地の鉄道に存在しのたかは不明です。ま、いずれにせよ便利な呼称っす。
 このシステムは戦後、中国では踏襲されませんでしたが、韓国には残り続けました。植民地期の残影は、こういうところにも残っているのです。
↓「パシ5」形(植民地期の「パシコ」形)(京畿道富谷・鉄道博物館、せのはっち撮影)
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June 10, 2005

往来危険

 風邪をひきました・・。私にとって夏の風邪は冬のそれよりツラいっす・・。
 それはさておき,この数ヶ月の間によく耳にするようになった単語の一つに「往来危険」。電車の線路にチャリ(某A県西M河地方では「ケッタ」という)を置くという,ク○クズ犯コロの罪状として出てきますね。んでも,よくよく考えると「往来危険」というのは,何か分かるようで分からない,そんな表現ぢゃないっすか??

 刑法第125条の1項に以下のような規定があります。

 第125条① 鉄道若しくはその標識を損壊し,又はその他の方法
         により,汽車又は電車の往来の危険を生じさせた者
         は,二年以上の有期懲役に処する。

 なお,2項目は艦船航路に関する規定です。さてこの規定による犯罪,法理上では「危険犯」というものに分類されています。つまり,法益侵害の結果(=実害)が実際に生じることを要せずに,単に法益侵害の危険が発生するだけで成立する犯罪のことです。なので,「線路上に置いてあったモノに実際に電車が衝突して犠牲(者)が・・」という段階の前に,すでに「やっただけで犯罪」になるという概念ですね(ま,条文読めば分かるんですけど)。類型としては放火罪(刑法第110条の方)と同じになりますね。
 ちなみに「若しくは」と「又は」の違いですが,選択的連結が一段階の場合は「又は」(「A又はB,C又はD」→「AかB」「CかD」,ABとCDの間は単なる並列),二段階以上の場合には「又は>若しくは」(例:「A若しくはB又はC」→「「A or B」か,それとも「C」」ということ)。ただし,若干の例外あります。

 さて,上記の規定を読み進めると,

 第127条 第125条の罪を犯し,よって汽車若しくは電車を転覆さ
       せ,若しくは破壊し,又は艦船を転覆させ,沈没させ,
       若しくは破壊した者も,前条の例による。

「前条の例」ってナンでしょ??

 第126条① 現に人がいる汽車又は電車を転覆させ,又は破壊し
         た者は,無期又は三年以上の懲役に処する。

これの判例を知りませんけど,転覆しただけで三年以上なので,結構重いような。で,もっとスゴいのが次。

 第126条③ 前二項の罪を犯し,よって人を死亡させた者は,死
         刑又は無期懲役に処する。

すげー・・。線路にモノ置いて,もし電車がひっくり返って死者出たら,その時点で「死刑か無期」っすよ。昔の「尊属殺重罰」並み。
ということで,F山~M原沿線在住の犯コロ,とくと心得ておけ。

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June 02, 2005

往年の味:御堂筋のドーム

 梅田で思い出しました.今回久々に御堂筋線に乗ったんですが,淀屋橋を含めた梅田~心斎橋間の駅は,これまた近年の補修工事で様変わりしてしまいましたけど,まだ部分的に何となかつての「ドーム」を感じることができます.「現代化」(=保全・利便性向上その他)も必要なことなんですが,失われていく往年の味も,時には思い出したいものです.

 ※ご存じない方がいるかもしれないので,説明を.大阪市交通局御堂筋線(全国で2番目,大阪では最初)の駅のうち,最初の開業区間・梅田~心斎橋(1933年開業)は,上下線合わせたホーム全体が一つのドーム(しかも10両対応)になってるという,日本の地下鉄では唯一(かつ当時既に10両対応を考えたという点で先見的)な構造を持ってました.地下駅をドームにすると視覚的に広くなり,圧迫感を消すことができますね(モスクワの地下鉄なんかが有名です).ただその反面,構造維持のため建設費が高くなるという欠点がありますが.今はドームの中間あたりを水平に分断する「床」が追加されて実質的に「2階」分に分断されてしまい,ドーム(の景観)そのものは消滅してしまいました)

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June 01, 2005

はんきゅー

 ご指摘の通り,はんきゅーカラーにしてみました(笑).ま,偶然なんすけどね.
 「鉄ヲタ」じゃねーっていっておきながら,出先で結構電車に乗ったりしてます(笑).今回の大阪・京都行き,大阪までは高速バスを利用したので,大阪方の基点は決まってます.そこで久々の鉄路利用,京都往復をちと楽しもうと思ってました.
 京都までは都合上,大学近くで下車する必要があるので,自ずと京阪になります.研究会の会場が中津(某K合塾)なので,ここから御堂筋線で「淀屋橋」で乗り換えて京阪へ.出町柳までは特急一本で460円也.ただ「テレビ」がなかったんすけど,京阪は「テレビ」をウリにしなくなったんかいな?(←分かる人には分かる).
 んで帰りの今日.帰路は阪急と決めてたんですが,友人宅が修学院の方なので,出方に少々難アリ(ご存知の方もいるでしょうが,修学院は叡山電鉄が走ってるので,京阪には簡単に行ける).ま,祇園までバス→徒歩で四条大橋,というルートを取りましたけど.それにしても阪急電車の「チョコレート色」&「ジュラルミンの格子戸みたいな日よけ」はオツなもんです(苦笑).ただ,「淀川の三併走」がなかったのはちと残念でした(←これも見たかった).ちなみに河原町~梅田,所要40分で390円(!).某S条から某H大までなんか,270円かかるんやぞ(怒).JR西が,値段で敵わんからスピード早くしたとゆー理由も頷けますわい.
 それにしても阪急の梅田駅,震災後の補強で往時の姿は失ったとはいえ,ホントに「ターミナル」という雰囲気持った,いい駅です.
 そうだ.も一つ.「エイデン(叡山電鉄のこと)」,あの塗装は少々(というかかなり)風景とミスマッチのように思えるが・・.

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April 23, 2005

路面電車

 近年,路面電車が再評価されているようです。もともとの理由は「環境に優しい」(=この表現自体は好きじゃないんですが)。排気ガスを出さない,騒音・振動があまりない(音は出るけど「騒音」というほどではない),安全,大量輸送可,などの理由だそうです。が,それ以外に重要なのが,(1)地下鉄に比べて建設費がはるかに安い,(2)シームレス(利用者に対する高低差の僅少性),という点です。特に後者は注目すべき点で,単に一般利用客だけでなく,体の不自由な人たちでも容易に利用(=昇降)できるというのは,これまでの(公共)交通機関の弱点(というか,単に気にしてこなかった)という点で,今後の可能性が期待されています(地下鉄は「渋滞に影響しない/されない」という点では強みがありますが,反面(1)とにかく造るのに金がかかる,(2)シームレスにほど遠い(=上下移動が要求される),という点で,ちと難点があります)。
 さて,現存する19の路面電車のうちで,おそらく最長の営業距離を持っているのが広電。で,いろんな電車が走ってますが,その一つが↓これ。
 元大阪市電の1650形で,同市電の廃止(確か1969年)によって広島にやってきました。現在でも当時のままの外見で走ってます。この車両,1940年製。確かに路面電車は長距離を走行しないことから構造・装備が簡易で,その分整備のしやすさ(=長生きしやすい)という事情はあるでしょうが,とにかく長持ちしてます(ちなみに豊橋鉄道の3700形が1928年製なんだけど,鉄道・軌道関係ナシに一般旅客用としても,これが現役最古なんじゃないかな。乞情報)。
 要は,「扱い方」なんすよ,そのモノ(の価値)を生かすも殺すも。それを使う側の技量と知恵にかかってるわけです(個人的意見ですが,この観点からすれば,企業である点を考慮しても,近年の某μ鉄の姿勢は「得策ではない」といわざるを得ない)。
(※くどいよいですが,鉄ヲタじゃありませんので)

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April 09, 2005

とある田舎にて

 ちょうど留学して半年目,在外研究でソウルに来ていた某先生方と,全羅南道井邑(ジョンウプ)というところを訪れる機会がありました。東亜日報を創設した金性洙(キム・ソンス)の生家を見学するためです。
 行き帰りともソウルから鉄道,ムグンファ号を利用しました。写真はその途中,最後尾のデッキからすれ違った上り(ソウル行)のムグンファ号を捉えたものです。季節の関係か,当時付近一帯は濃い霧に包まれていました。瞬間,まるで静粛を突き破るかのようにすれ違った列車は,また白い「天幕」の中へと消えていったのです。

2000年10月1日 京釜線・鳥致院(ジョチウォン)付近

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